海のイメージが強い高知県ですが、実は山地率89%という山国でもあります。高知市街の中心に建つ高知城も小高い山の上に建っています。
なぜ山の上に高知城が建てられたのか。今回は、高知の地質と城郭の関係について解説します。
高知城と大高坂山(おおたかさかやま)のなりたち
高知城の天守閣は、日本国内に12しかない現存天守のひとつです。現存天守とは江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことです。さらに、 天守閣・大手門ともに焼失を免れたのは弘前城・丸亀城・高知城の3か所だけとのことなので、とても貴里な遺産だと言えるでしょう。
さて、この高知城が建っている小高い山は「大高坂山」(標高44.4m)といいますが、高知市街地の真ん中にぽつんと立ちあがっているように見えます。周りは河川や運河跡のある低平地です。なぜここに、このような山があるのでしょう。
高知城の天守閣にのぼり周りを見回すと、低平な市街地は周りの山々に取り囲まれているように見えます。そしてその山々をじっくり見ると、なんだか東西に並んでいるようです。
これは、太平洋側からプレートに乗って大陸にぶつかってできた地質帯が平行に並んでいるためです。
東西方向に発達した高知の街
地質帯の境界で岩石の性質は大きく異なります。境界は構造的に弱部になるため、周りよりも早く侵食が進んで谷となり、規模が大きくなると河川ができます。
こうしてできた谷筋や山の尾根筋など直線状の地形のことを「リニアメント」と呼びますが、高知市周辺はほぼ東西方向の「リニアメント」を明瞭に見て取ることができます。これに沿って、高知の市街も東西方向の河川・運河・道路・鉄道等の地物が発達しています 。
高知城が山の上に建てられた理由
高知城がある大高坂山も、ぽつんと立ちあがっているように見えて、江ノロ川によって分断されているものの、三ノ丸、福井町、横内、鳥越地区と続く山の先端に位置することが次の地形図から読み取れます。地質的には、どちらの山も同じ苦鉄質岩(くてつしつがん)でできています。
大高坂山と山地との位置関係も地質帯の侵食の結果できました。 地質帯の境界が東西方向に侵食され、鏡川(かがみがわ)・久万川(くまがわ)ができました。 これら河川の間で削り残された山が大高坂山に続く一連の山になります。その後さらに侵食が進んで一連の山地は切れぎれになり、大高坂山は西側の山地から切り離された独立した山になりました。
このように、侵食作用によって周りの山地から分断された小高い山や丘を「残丘」といいます。残丘は周りの低地とは明瞭な高低差があるため、守りやすく攻め難い城塞を築くには格好の場所でした。
地質と城郭は意外にも関係が深いものなのです。
こぼれ話
残丘は分断された丘ですが、まだ山地から分断されきっていない台地の突端部分も残丘と同様に城塞には適した土地です。
日本の多くの城郭(江戸城・名古屋城・大阪城・熊本城など)はこうした台地の突端部分に築かれています。
昔の人々は正確な地形図や航空写真もないのに、地形を本当によく理解して活用していたものだと感心させられます。
引用:※1 国土地理院 地理院地図の陰影起伏図に加筆/※2:国土地理院 地理院地図のデジタル標高地形図に加筆/※3:国土地理院 地理院地図の色別標高図に加筆
技術士(応用理学部門:地質)
地盤品質判定士
2006年ジャパンホームシールド株式会社に入社、日本全国の住宅地盤の安全性評価業務に携わる。2011年より同社地盤技術研究所研究員、現在に至る。
趣味:気になる地形をバイクで見に行くこと。バイオリン。